2020年6月23日
ブログを先週に更新してみて、活動停止して久しいのにこのブログを気にして下さっていた方がおられたことを知りました。
ありがとうございます。
あまりに長い時間が過ぎ、そして今まで経験したことのない自粛生活(誰でもそうですが)だったので、次は何を書いたらよいか分からなくなっていました…
思いつくまま気ままに日常を振り返ってみるので、さらりと読み流していただければ、嬉しいです。
2月から少しずつコロナウィルスが近づいてくる感じがありましたよね。
3月になったら、毎日のようにこの脅威について報道されるようになり、目が離せなくなってしまいました。
中国の様子から始まり、ヨーロッパの混乱の映像、続いてはアメリカの様子も次々と伝えられ信じられない光景が広がり、日本にいる自分の周りにも同じことが起こり得ると私は恐怖にかられました。
専門家でさえよく分からないという新しいウィルスなので、できる限りの情報を得て、自分自身で判断していかなくてはならないと強く思いました。
そのために私は他のことが手に付かず、テレビやネット漬けの毎日を送っていました。
全ての予定をキャンセルして、買い物もできる限り少なくして、息をひそめて家の中に居ました。
私の行動を非難し笑う人もいるくらいに、私は用心していたのです。
4月になって緊急事態宣言がなされた時は、少しほっとしました。
それくらい私は神経質になっていたのです。
ウィルスの脅威で世界が変わってしまい、これからの生き方も価値観も変わっていくと思いました。
社会に大きな変化を求められ、弱者へのひずみもあとから表出するであろうこと、休校中の子供たちのこと、次々と湧きおこるこれからの課題に不安が増し、何も手に付かない状態でした。
そう考えるのは誰でも同じだと思っていたのですが、夫は全く何も感じていないようでした。
私がこんなにも怯え悲観しているのに、彼は平常心のままとても淡々としていて、何も起こっていないかのような、日常をこなしていました。
すごく軽く考えているようだった。彼にとってしなければいけないことは、外出のマスクと帰ってきてからの手洗いとうがい、それだけ。
夫は年金生活者になって請われた町内会の仕事もすべて自粛となり、部屋にこもるだけ。彼にとってはとくに変わった事はないのです。
そのときに私は、夫のことを少し羨ましいと思ったのです。
起きるであろうことを想像しても仕方がない、先々のことをあれこれ思い悩み心を乱しても何ら変わらない、神経が磨り減るだけ、今を着実に生きて暮らしていけばいいと考えるようになりました。
もちろん夫は、そういう過程があり意図して達観して淡々としているわけではありません。
でも何が起ころうと振り回されないという点では、私も多くの情報を正しく受け取り咀嚼して、淡々とありたいと思ったのでした。
とは言うものの私は、この大きな不安と頭を駆け巡る思いを誰かと共有して話したくて仕方ありませんでした。
夫に「大変なことになったね。」と思わず言ってしまいましたが、「ああ」それっきり、それだけの返事でした。
それで友達と頻繁にメールやラインのやり取りをしたり、励まし合ったり、また電話して気持ちを吐き出して、整理することができたように思います。
人と気持ちを分かち合い、話すことは必要なのです。
今日はここで終わりますね。
続きはまた。
ありがとうございます。
あまりに長い時間が過ぎ、そして今まで経験したことのない自粛生活(誰でもそうですが)だったので、次は何を書いたらよいか分からなくなっていました…
思いつくまま気ままに日常を振り返ってみるので、さらりと読み流していただければ、嬉しいです。
2月から少しずつコロナウィルスが近づいてくる感じがありましたよね。
3月になったら、毎日のようにこの脅威について報道されるようになり、目が離せなくなってしまいました。
中国の様子から始まり、ヨーロッパの混乱の映像、続いてはアメリカの様子も次々と伝えられ信じられない光景が広がり、日本にいる自分の周りにも同じことが起こり得ると私は恐怖にかられました。
専門家でさえよく分からないという新しいウィルスなので、できる限りの情報を得て、自分自身で判断していかなくてはならないと強く思いました。
そのために私は他のことが手に付かず、テレビやネット漬けの毎日を送っていました。
全ての予定をキャンセルして、買い物もできる限り少なくして、息をひそめて家の中に居ました。
私の行動を非難し笑う人もいるくらいに、私は用心していたのです。
4月になって緊急事態宣言がなされた時は、少しほっとしました。
それくらい私は神経質になっていたのです。
ウィルスの脅威で世界が変わってしまい、これからの生き方も価値観も変わっていくと思いました。
社会に大きな変化を求められ、弱者へのひずみもあとから表出するであろうこと、休校中の子供たちのこと、次々と湧きおこるこれからの課題に不安が増し、何も手に付かない状態でした。
そう考えるのは誰でも同じだと思っていたのですが、夫は全く何も感じていないようでした。
私がこんなにも怯え悲観しているのに、彼は平常心のままとても淡々としていて、何も起こっていないかのような、日常をこなしていました。
すごく軽く考えているようだった。彼にとってしなければいけないことは、外出のマスクと帰ってきてからの手洗いとうがい、それだけ。
夫は年金生活者になって請われた町内会の仕事もすべて自粛となり、部屋にこもるだけ。彼にとってはとくに変わった事はないのです。
そのときに私は、夫のことを少し羨ましいと思ったのです。
起きるであろうことを想像しても仕方がない、先々のことをあれこれ思い悩み心を乱しても何ら変わらない、神経が磨り減るだけ、今を着実に生きて暮らしていけばいいと考えるようになりました。
もちろん夫は、そういう過程があり意図して達観して淡々としているわけではありません。
でも何が起ころうと振り回されないという点では、私も多くの情報を正しく受け取り咀嚼して、淡々とありたいと思ったのでした。
とは言うものの私は、この大きな不安と頭を駆け巡る思いを誰かと共有して話したくて仕方ありませんでした。
夫に「大変なことになったね。」と思わず言ってしまいましたが、「ああ」それっきり、それだけの返事でした。
それで友達と頻繁にメールやラインのやり取りをしたり、励まし合ったり、また電話して気持ちを吐き出して、整理することができたように思います。
人と気持ちを分かち合い、話すことは必要なのです。
今日はここで終わりますね。
続きはまた。
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